御本尊様

一光三尊阿弥陀如来

御本尊様

高山善光寺の御本尊様は、一光三尊阿弥陀如来像です。中央に阿弥陀如来様、向かって右側に観音菩薩様、左側に勢至菩薩様が一つの光背の中に三人の尊い方が一緒に立っておられる像であります。また、御本尊様は絶対秘仏となっておりますので、お姿を見ることはできません。

信州善光寺の『善光寺縁起』によれば、善光寺如来様は、遠くお釈迦様在世の時にインドで出現なさったといわれております。その後、百済にお渡りになり、欽明天皇13年(552年)日本に仏教が伝来した時に、百済より贈られたと語られています。日本最古の仏像とも云われております。

御本尊様は古来より「生身の如来様」といわれており人肌のぬくもりを持ち、人と語らい、その眉間の白毫から智恵の光明を発しているというのです。奈良の法隆寺には「善光寺如来御書箱」という、聖徳太子と善光寺如来様が取り交わした文書を入れた文箱が現存しています。このように、人々と触れあう如来様として信仰を集めて参りました。

御本尊様の印相は特徴的です。中央、阿弥陀仏の印相は、右手は手のひらを開き我々の方に向けた施無畏印(せむいいん)、左手は下げて人差し指と中指を伸ばし他の指は曲げるという刀印(とういん)です。これは法隆寺金堂の釈迦三尊像に代表される、飛鳥・白鳳時代頃の仏像に特徴的な印相です。
左右の菩薩の印は梵篋印(ぼんきょういん)といい、胸の前で左の掌に右の掌を重ね合わせる珍しい印相をしています。その掌の中には真珠の薬箱があるといわれています。また、三尊像は蓮の花びらが散り終えて残った蕊(しべ)が重なった臼型の蓮台に立っておられます。

このような特徴を全て備えた一光三尊阿弥陀如来像を通称、善光寺式阿弥陀三尊像、あるいは善光寺如来といっております。

徳本上人揮毫

徳本上人揮毫

高山善光寺は国道158号線にあります。国道に面した山門横に「南無阿弥陀仏」と独得な文字で書かれた大きな石碑があります。紀伊の国(和歌山県)の高僧・徳本上人が揮毫されたものです。

石碑建立と善光寺移設までの経緯

徳本上人は江戸時代文化13年(1797年)信濃の国(長野県)から高山へ訪れました。
7月14日から3日間、高山の大雄寺様が徳本上人をお招きし、ご本堂の正面縁側に高座を設けました。朝、昼、晩の三回にご法話をするほど聴聞者が多く、徳本上人が訪問された記念にと大雄寺様に「南無阿弥陀仏」の名号を揮毫され、その名号を刻んだ石塔を建てることになりました。

徳本上人に染筆、開眼供養をしていただくべく、大石を松倉山から大雄寺下まで、大衆が力をもって引く大持ひきが行われました。

また、大雄寺様では桐生万人講の仕置場、今でいう処刑場へも徳本上人染筆の名号石塔を建てる計画を立て、郡代御役所へ願い出ていたところ、幕府勘定奉行所からの指示で文政2年(1803年)正月「相成らざるむね」と願書が却下されました。

浄土宗は将軍家の宗門であるから、仕置場に南無阿弥陀仏の名号石塔は遠慮するがよいということが却下の理由で、その後文政4年(1805年)2月、大雄寺様は再度願いでて、万人講仕置場の外へ建てるならよいということで名号石塔が建てられました。

ところが120年程経過した昭和の時代になると道路拡張により移設することが必要になり移設先として浄土宗の寺院に戻した方がよいのではということになりまして、それがご縁となり、ここ高山善光寺に移され今に至っております。

庭園

庭園

ご本堂の裏に、浄土宗独特の教えである「二河白道」の喩を再現した庭園がございます。

「二河白道」というのは、現世と極楽浄土の世界の間に燃え盛る火の河と激流の水の河があって、人はそこを通ることができないが「南無阿弥陀仏」と信じ唱えることによって一筋の白道が現れ、それを通って浄土に到達できるという信心を喩えたもので主に絵図や掛け軸にして教えを説いたものです。

高山善光寺の庭園は、この信仰に従い、池を渡る石橋を念仏を唱えて渡ることで往生浄土が得られることを表現しております。

戦没者慰霊碑

第三世信潤上人の顕彰碑

戦没者慰霊碑

先の第2次世界大戦では太平洋の戦いにおいて軍民国籍を問わず多くの犠牲者が出ました。
第三世、信潤上人は自身も海軍航空兵として戦争体験があり、多くの仲間を戦地にて失いました。

信潤上人は戦地であった太平洋の島々に未だ回収されない遺骨が多数存在するのを知り、第四世、博道上人と共に何度も現地を訪れ慰霊を行い多数の遺骨を回収し祖国に連れ帰りました。そのご遺骨は世界平和を祈念する碑の下に安置され安らかに眠っておられます。

遺骨収集に尽力された信潤上人は北マリアナのテニアン島にて遺骨収集の作業中に遷化(せんげ:亡くなられる)されました。
戦没者追悼碑は信潤上人の顕彰碑も兼ねています。
信潤上人が遷化されたテニアン島ではテニアン中学・高校の校庭に信潤上人の顕彰碑が建てられ、現在も地元の生徒・先生によって守られております。

弘法大師堂

弘法大師堂

明治44年(1911年)高山にて宗派を超えて二十一の霊場が設けられました。
この大師堂は第2番の霊場で弘法大師の御杖跡と言われている穴開き石(霊石)が安置されています。霊場となった善光寺では、信徒縁者より浄財を集めて大師堂を建立しました。

弘法大師にまつわる話しでは、弘法大師は全国を回り、杖で地を突いて荒れた土地に水や温泉を湧かすこと、塩が手に入らない所には塩水の井戸を湧かすなどのお話が各地に残っています。湧き出た水を飲むと見えなかった目が見えるようになったり、温泉で身体を癒したりと噂は広まりました。

眼病・胃腸病・皮膚病・切り傷・火傷・安産・書道・茶の湯等々、万病に効いたそうです。
その水のお陰で利益を得た方々が、お礼にと御杖跡にあやかった穴開き石を供えることがあったようです。

硬い石に穴が開き、先が見通せることで要するに願いが叶うと縁起を担いで供えられたものと思われます。
小石の中から、穴が開いた石を見つけるのは大変難しいことです。穴開き石は、「穴が通る=よく見える」として、また、「石が通る=意思が通る」としても元を担ぐことに通じています。

善光寺では、全国からの参拝者から穴開き石がもたらされ石に触れたり、枕元に置いて眠ると安産、子宝のご利益があると信仰されています。現在でも妊婦さんにはお産が軽く無事出産できるようにとお水を差し上げ、妊婦さんには穴開き石の貸し出しを行っています。

ご戒壇巡り

ご戒壇巡り

高山善光寺には信州善光寺と同様にご戒壇巡りがございます。
高山善光寺のご戒壇巡りとは、本堂の内陣より地下回廊に入り、燈明の助けなく秘仏の御本尊様の下を巡って、「仏様の分身であるお錠前に触れる」ことによりまして、仏様と縁を結び、この世に生を受けてから今日まで犯した一切の悪業を浄化していただき、さらに極楽往生のお約束をいただく行であります。これゆえにお錠前は「洗罪極楽の鍵」と呼ばれております。

ご戒壇巡りに入ると、一寸先も見えない暗闇の中を手探りで進み、やがて御本尊様の真下に懸かる「洗罪極楽の鍵」に触れて出てきた時、最初に目にするのが出口から射し込んでいる光です。目の前にそのわずかな光を見る時、ほっと安堵の思いをいたすことでしょう。普段は感ずることのない、光のありがたさ、目の見える尊さを覚えることでしょう。

ご戒壇の中の暗闇は、無差別平等の世界をあらわしているものとされております。私たちは、日頃余計なものに眼を奪われて、ものの本質を見誤ったり、争ったり、嫉妬したり、むさぼったりして、結果は悩みに陥るのです。ところが、暗闇の中では、私たちは種々のとらわれの心を離れ、お錠前を探し当てることに専心します。つまり、仏様の世界に入って行くことができる行なのです。高山善光寺に参拝される皆様、是非ご戒壇巡りを体験してください。

※ 内部の高さは一番低い所で一メートル八十センチになって居ますが、それ以上のお方はご注意下さい
※ 「浄心極楽の鍵」は右側の壁、普通のお方ですと、胸の高さあたりに有ります。